寺田寅彦随筆より~線香花火

雑記

どうも、やまとです。

みなさん、寺田寅彦先生をご存知でしょうか。明治から大正、昭和にかけて、著名な物理学者として活躍し、科学の楽しさを伝える優れた随筆を多く残してきた人物です。夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する水島寒月という人物は寺田虎彦がモデルです。寅彦の英語の先生であった漱石に俳句や文学を学んだことが、さまざまな分野の才能を開花させることにつながったようです。そして寅彦は口癖のように「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」と学生たちに語り掛けたといいます。

そんな寅彦の随筆から「線香花火」というタイトルを紹介したいと思います。文章が古めかしいので少し読みにくいところもありますが、寅彦の文章は国語の問題などでも引用されることが多いですから中高生はこのような文章にも慣れる必要があります。 

はじめ先端に点火されて、ただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心を、まさにきたるべき現象の期待によって、緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって、小さな炎が牡丹の花弁のように放出され、その反動で全体は振り子のように揺動(ようどう)する。同時に灼熱(しゃくねつ)された熔融(ようゆう)塊(かい)の球がだんだんに生長して行く。炎がやんで次の火花のフェーズに移るまでの短い休止期がまた名状(めいじょう)し難い心持ちを与えるものである。火の球は、かすかな、ものの煮えたぎるような音を立てながら細かく震動している。それは今にもほとばしり出ようとする勢力(エネルギー)が、内部に渦巻いている事を感じさせる。突然火花の放出が始まる。目に止まらぬ速度で発射される微細な火弾(かだん)が、目に見えぬ空中の何物かに衝突して砕けでもするように、無数の光の矢束(やたば)となって放散する、その中の一片はまたさらに砕けて第二の松葉、第三第四の松葉を展開する。この火花の時間的ならびに空間的の分布が、あれよりもっと疎であっても、あるいは密であってもいけないであろう。実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重(そうちょう)なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。私の母はこの最後のフェーズを「散り菊」と名づけていた。ほんとうに単弁の菊のしおれかかったような形である。「チリギクチリギク」こう言ってはやして聞かせた母の声を思い出すと、自分の故郷における幼時の追懐(ついかい)が鮮明によび返されるのである。あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。

 実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。

中略

このおもしろく有益な問題が従来だれも手を着けずに放棄されてある理由が自分にはわかりかねる。おそらく「文献中に見当たらない」、すなわちだれもまだ手を着けなかったという事自身以外に理由は見当たらないように思われる。しかし人が顧みなかったという事はこの問題のつまらないという事には決してならない。

 もし西洋の物理学者の間にわれわれの線香花火というものが普通に知られていたら、おそらくとうの昔にだれか一人や二人はこれを研究したものがあったろうと想像される。そしてその結果がもし何かおもしろいものを生み出していたら、わが国でも今ごろ線香花火に関する学位論文の一つや二つはできたであろう。こういう自分自身も今日まで捨ててはおかなかったであろう。

 近ごろフランス人で刃物を丸砥石でとぐ時に出る火花を研究して、その火花の形状からその刃物の鋼鉄の種類を見分ける事を考えたものがある。この人にでも提出したら線香花火の問題も案外早く進行するかもしれない。しかしできる事なら線香花火はやはり日本人の手で研究したいものだと思う。

 西洋の学者の掘り散らした跡へはるばる遅ればせに鉱石の欠けらを捜しに行くもいいが、われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかしそれを掘り出すには人から笑われ狂人扱いにされる事を覚悟するだけの勇気が入用である。

1927年「忘備録」より

これが、今からおよそ100年前に書かれた文章です。寅彦の書く文章は、科学や科学者とは何なのか、科学と人間・日常の関係に対して何かしらの意見・提言をやわらかい物腰で、ときには力を込めて、現代でも通用する話題として言及しています。実際に、2000年代に入って、ロケットや人工衛星のエンジンにおける液体推進薬の分裂現象を研究している科学者が、寅彦の提言を受けて線香花火の研究成果を発表しています。線香花火とロケットのエンジン。一見するとまったく関連がないようですが、そこに共通点を見出すことができるのです。寅彦は見る、聞く、触るのような人間の五感を大事にしています。そのような日常生活での体験を材料にし、科学の方法でそれらを考えてみようという態度で、考えることの楽しさを伝えてくれています。つい当たり前として見過ごしてしまう事柄であっても、よくよく考えてみればなぜそうなるのかがよくわからないことはたくさんあります。それに気づくようになることが、科学者の第一歩なのでしょう。知らないことやわからないことに出会ったとき、寺田寅彦先生の問いかけを思い出してみてください。

「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」

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