”全力を出す”ということ

学校生活

どうも、やまとです。

2学期が始まり、部活動では新人戦のシーズンですね。今日は特に部活動で頑張る皆さんに、”全力を出す”ということについてお話します。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、分からないのだから。

旧約聖書 コヘレトの言葉11章6節

勤務校では毎朝礼拝があります。私はクリスチャンではありませんが、すべての教員が年に数回礼拝のお話担当になります。その時には話の内容に沿った聖書の箇所を探すので、自然に聖書を読む機会ができます。私は旧約聖書の箴言・詩篇・コヘレトの言葉が好きです。先ほどの聖書の言葉は、蒔いた種の手入れについて書かれています。既に多くの種が蒔かれ、豊かに育ちつつある皆さんだと思いますが、そこに毎日、新たな種を自分で蒔いていくのが中学・高校時代です。英語に数学、現代文に古典、試験勉強、生徒会、部活動や習い事、友達や家族との関係、一人の時間。何が実を結ぶか分からないから、たくさんの種、ひとつひとつに対して、あなたがたは全力を尽くすべきであると教えています。

あなたは全力を出したことがあるか?

しかし、「全力を尽くす」と言うのは簡単ですが、実際に「全力を出す」ことは実はなかなか難しいことです。人間には限界があります。できることとできないことがあり、努力してもどうにもならないことは確実にあります。ただそう言い切る前に大事なことが一つあって、それは努力というのがどの程度を指すのかが人によって違うということです。

10年ほど教員として指導をしてきて思うのは、全力を出したことがある、または出すことができる人は案外少ないということです。中には7、8割の力のことを全力だと思っている人もいるように思えます。嘘をついているのではなく、人生で7割しか出したことがないから本当にそれが限界だと思っているのです。昔、地球の端っこは崖だと信じられていました。行ってみるまではどこが端っこかわかりません。事実、地球は球形で、地球の端など存在しなかったわけです。ここまでが限界だと思っていたところを越える瞬間があった後、それまでは全力を出していなかったとようやくわかります

自分のことを振り返ると、本当に全力を出したと言い切れることが、人生の中で2回だけあります。1つは高校3年生のときの陸上部の全道大会、もう1つは大学3年生の和太鼓の演奏会です。なぜこの2回が自分の全力だったと思うかというと、どちらもそのあと39℃の熱を出して倒れたからです。決して調子が悪かったわけではありません。むしろ、完璧にコンディショニングをして、最高の状態でその日を迎えました。したがって、私の中では「体がギブアップをするほどのパフォーマンスをした=限界を迎えた=全力を出した」です。

全力を出す VS コントロールする

そう考えると、全力を出すことは怖いことです。全力を出し切ると疲弊して、くたくたになってしまいます。だから、ついペース配分をしてしまいますが、その状態で全力を出すことはできません。力を配分するということは余裕を残すということだからです。そして全力はコントロールが効きません。私が指導する陸上部にはよく、「全力でやれ」とか「自分の身体をコントロールしろ」と言いますが、相反することを要求しているなぁと、自分でも思っています。ですから正確には「全力になるべく近いパフォーマンスを、自分でコントロールして出せる状態を作る」ということです。 本当の全力はなりふり構わない状態で出ます。どう思われても構わない、どうなったって構わない。ある種の狂気の状態で全力は出ます。一度も全力を出したことがない人は「努力しきったことがないから、努力してもどうにもならないことがあるかどうかもわからない」でしょう。逆に、一度でもこの狂気の全力を経験している人がいう「努力でも、どうにもならないことがある」は信じられます。

自分の限界を探る

もちろん、ずっと全力でなくても構いません。普段はむしろペース配分をしっかりして、バランスよく生活することの方が重要でしょう。しかし、一度でいいから本気で何かに力を出し切ることは、限界がどこかを悟る上でも大事なことだと思います。特にスポーツは、ほとんどの人が勝者にはなれないかわりに、「全力の出し方を覚える」という点でとても貴重な機会です。そして、この全力の出し方はスポーツ以外にも応用可能だと、私は考えています。自分には未だ見知らぬ自分がいるはずです。「全力を出す」とはその自分に出会うために必要な儀式なのではないでしょうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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